ほどく、しずまる、響きあう。現代の住まいに「間」を置くということ
埋め尽くすことへの、かすかな違和感から
私たちはいつから、空間の隙間を埋めることに躍起になるようになったのでしょうか。都市の喧騒はもちろんのこと、家の中でも、壁面を棚で埋め、床を家具で埋め、時間を予定で埋める。そうして密度を高めていくことが、豊かさや効率に直結すると信じている節があります。しかし、河添建築事務所で設計に向き合う日々の中で、私が常に抱いているのは「本当に必要なのは、埋めることではなく、引くことではないか」という、ある種の祈りに近い問いです。
日本の伝統的な建築が持っていた「間(ま)」という概念は、単なる空隙ではありません。それは、存在と存在の間に横たわる、静かな、しかし濃密な緊張感のことです。例えば、一輪の花を活けるとき、その周囲に広がる「何も置かれていない空間」がなければ、花の命はこれほどまでに際立つことはないでしょう。建築も同じです。柱と柱の間、床と天井の間、そして内と外の間に、どのような余白を配置するか。その余白こそが、そこに住まう人の呼吸を深くし、思考を透明にするのだと考えています。
呼吸する壁、あるいは沈黙の質

冷たいコンクリートや均一な石膏ボードで囲まれた部屋に、どうやって生命を宿らせるか。それは、光の入り方、風の抜け方、そして素材の質感の変化によって、視覚的には捉えにくい「空気の層」を創り出す作業に他なりません。朝の斜光が床をなぞる数分間、あるいは夕暮れ時の青い影が部屋の隅に溜まる瞬間に、私たちは不意に「間」の存在を意識します。そこには、言葉で定義できない、ただそこに在るだけで満たされるというKAWAZOE-ARCHITECTSの思考の断片が静かに息づいているのです。
答えのない場所を、家の中に持つ
機能的な部屋ばかりで構成された家は、使い勝手は良いかもしれませんが、想像力の余地を残してくれません。書斎は本を読む場所、寝室は眠る場所といった、目的と機能が1対1で結びついた空間からは、予期せぬ喜びや、ふとした思索は生まれにくい。私が理想とするのは、その場所が何のためにあるのか、すぐには答えを出さなくていい「空白の領域」を家の中に組み込むことです。
それは、ただの通り道かもしれないし、少し広すぎる玄関ホールかもしれません。あるいは、階段の途中に設けられた小さな踊り場。そこを訪れるたびに、あるいはその場所を横切るたびに、住む人の心にさざ波が立ち、日常のノイズがろ過されていく。そのような空間を設計することは、効率を重視する現代社会においては、一見すると無駄なことのように思えるかもしれません。しかし、その「無駄」こそが、人の心を健やかに保つためのバッファーになるのです。
思考はまだ、余白の先へ続く
建築家として、図面に一本の線を引くとき、私はその線が区切る「空間の質」を想像します。それは物理的な寸法としての「間」ではなく、人の意識が滞留する時間としての「間」です。この思考は、一つの住宅を完成させたからといって終わるものではありません。住まい手がそこで生活を始め、季節を重ね、家具を動かし、光を感じる中で、私たちが仕掛けた「間」は少しずつ変化し、深まっていく。建築は完成がゴールではなく、そこから始まる対話の器なのです。
これからも私は、この掴みどころのない「間」という概念を追い求め続けるでしょう。それは、現代に生きる私たちが、自分自身を取り戻すための、最も贅沢で、最も切実な空間のあり方だと信じているからです。答えは出さなくていい。ただ、その余白の中に身を委ね、移ろいゆく光や音に耳を澄ませること。その静謐な時間が、住まいに真の魂を吹き込むのだと考えています。